-Sugawara Bunta or : How I Learned to Stop Worrying and Love him-
はじめに。私は1975年生まれです。
つまり、菅原文太がいちばん輝いていたころには影もかたちもなかったということ。それでなぜ文太なのかと問われるならば、次のように答える。
「出版から100年後に読んだ少年だって "若きウェルテルの悩み" に胸をつまらせるじゃないか!」
数ある選択肢のなかではどうなのか。すなわち鶴田浩二とか、高倉健とか、渡瀬恒彦とかいるわけだろうに。あ、渡瀬の実兄とか小林旭とかは選択肢の外。なんとなくわかるでしょ? なんとなく、ってところは明文化しない。小上手な唄を...とかは。もちろん山城"アチャラカ"とか丹波"ブッ壊れ"とか梅宮"バカ"とかは問題の外。川谷拓三とか佐藤充とか千葉真一なんかはまた別で、ここで言いたいのは「しびれる2枚目」てことで、年代的にメジャーな2枚目と言えば双璧は高倉健と菅原文太になっちまうのです、田舎育ちの若者としては。
このへんは育ちに問題がある。(別に両親を批判してるわけじゃなくて)
そもそも育った環境と無関係での映画スターへの感情移入などあり得るのか、と。
じゃあ環境って何だ、と、ぐだぐだと長い話は今から情緒たっぷりに述べます。
映画館など無い、人口2万人ほどの町。
小学5年のとき、父に連れられドライヴすること1時間、初めて入った映画館で観たのは「南極物語」。
なぜか映画館は立ち見も出るほどの満員。
僕の席は通路の横で、その通路にはちょいと年上(高校生ぐらいだったのか...)の見知らぬおねえさんが、僕の座るイスの背にちょこんと手を添えて立ち観をしてたのです。
「あのぅ...」と、今なら立ち上がってペラペラ言ってしまうであろう「ここ、座ってください」という言葉も言えずにおねえさんの顔を見上げると、「ボク、気を使わなくていいのよ」とでも言いたげにニコリと微笑んでくれたのです。
2重にドキドキしながら上映が始まりました。映画の内容は僕に言わせりゃ「つまんねー」だったのですが、終盤、ふいに手の甲に水滴が落ちてきたのです。
おねえさんの涙でした。
隣の席に座る父の顔を見ると、やはり涙が。
しかしそこは親離れというか口直しというか、もう一度おねえさんの濡れた瞳を下から見上げたのでした。
原体験が「南極物語」なら高倉健じゃねーのか? と思うでしょうが、「つまんねー」映画に出てた人など憶えてるわけがありません。それに、当時(1983年ごろ)のアイドルといえばカトちゃんケンちゃんだったっのだし。
町に初めてビデオレンタル屋ができたのは中学生のとき。戦争映画とかB級コメディばっかり借りて観た。兄には「おまえは黒人かデブの白人が出てる映画が好きなのだ」と断定された。
高専の研究室にビデオデッキとテレビ(ステレオ音声!)があったので、夜、寮の点呼が終わってから通うようになった。隣の部屋の教授には「毎日夜遅くまで勉強してるようで感心」などと誤解されることもあった。
卒業間近の頃、自宅通学の友人に「"時計仕掛けのオレンジ" はおもしれぇ」などと言いながら、雪が降る日に「スピーシーズ/種の起源」を観に行ったらまったくの貸し切り状態だったので、最前列でゲラゲラ笑いながら観た。
文太兄ィと出会うのは大学に入ってから。
思うに、自分に無いものをギラギラ放つ兄ィにコロッと殺られてしまったのだ。高倉健と菅原文太という二元論で答えを出すなら、私の気性は、耐えて耐えて耐えて......の健に近いのだと思う。日本人だし。乱暴に言やぁ軽いマゾッ気。(あるでしょう、みんな。...ない?)
対照的に文太兄ィはラテンで破天荒で年中爆発してるのだ。そりゃあコロリと殺られちゃうってもんです。
......ここまで書いて、
前半の回顧が結論にぜんぜん繋がってないことに気づいたのだが、気にしない。ラテンだから。
1999年3月31日
(あべ)
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