toykawas quest
Higasi-Mikawa's Quest
BY yoshiono@tcp-ip.or.jp

東三河邪馬台国論

〜 「古代神都東三河 日本の源流」(著者 前田豊 彩流社)を読んで〜


isimakiyama-honnguusann石巻山から本宮山を望む

isimaki-sinnzann(←石巻神山)


 東三河にかって邪馬台国があったといったら、笑いとばされるかもしれませんが、 ここに、それを真剣に研究なさっている人がいる。
東三河の代表的な山は、本宮山、石巻山である。
前田氏は、石巻山はピラミッドであると仮定する
ピラミッドの条件は、
(1)整然とした三角山形、
(2)木造、石造の神社以前の最古の神社、
(3)本殿に対し、これを拝むための拝殿を伴う
(4)山頂に太陽石を中心とした列石がある
(5)拝殿には東西南北を示す方位石や、太陽光を反射するための鏡石や巨石がある


等である。
これは、縄文時代からの神が宿る磐座(いわくら)であり、祭祀 所である。山自体が御神体である。
石巻山は、15万年前の牛川原人や、三ヶ日原人、 高山蛇穴等古代人が多数住居していた地域の中心にあって、これらのピラミッドの条 件を全て満たすのである。石巻山の周辺には数多くの神社があり、それが石巻山を中 心に3重に環状配列されている。
その最初の三角は石巻神社(山頂)、石巻神社本社、 東頭神社である。
これらは、太陽の昇る位置にあわせて、石巻神社本社から石巻山頂 を見る方角が冬至の位置、東頭神社から山頂を見る方角が、夏至の位置となっている。
また、石巻山、本宮山、御津山、蔵王山はそれぞれ同様なピラミッドの条件を満たし、 それらの四山の位置が東三河のダイヤモンドゾーン(菱形)となっている。
これらの 山から神鏡で光通信をおこなっていた可能性もある。事実現地で見たら石巻山の周辺 神社の御神殿は、必ず本宮山を向いていた。
 さらに、前田氏は、司馬遷「史記」に書かれている、秦の始皇帝(BC200年後 半)によって、不老不死の薬を求めて日本へ派遣した徐福一族500余名の上陸した のが、御津であり、住み着いたのが東三河であるとしている。
彼らは古代ユダヤ人で あり、秦氏となり日本の古代政治に大きく関わる。
宇野政美氏によると、彼らが平安 京をつくったという。



kamojinnjya-teruyama賀茂神社から照山を望む



(←、↓、賀茂神社)

石巻山、本宮山、鳳来寺山が三神山であり、不二山、蓬莱山と いう記述を思わせ、この地域に豊の付く地名が多くあり、神話時代の「豊葦原瑞穂の 国」は、この地域であり、天照大神が、住まわれていた高天原は、新城市大宮地区か ら三河一宮、本宮山、照山、賀茂神社であるとする。
「魏志倭人伝」の邪馬台国への 道のりの記述からも、東三河にぴったりで、、邪馬台国と争った隣国の狗奴国(くの こく)が、静岡県遠江にあったことから、東三河に邪馬台国があっても不思議でない、 としている。
邪馬台国の都宮は賀茂神社であり、卑弥呼の後継者は台代(とよ)であ り、豊のつく場所にいたことを思わせる。
「古事記」、「日本書紀」にでてくる神話 は、東三河が中心であるということを、史跡伝承をもとに、解き明かしてゆく。また、 なぜ持統天皇が崩御の702年に御津へ行幸されたのかも、東三河にいた先祖の皇祖 霊への鎮祭のためであった。また持統天皇は、豊川の行名星野里へも立ち寄られた。 まだ、多くの驚くべき記述があったが、ご紹介できない。

 私は、子供の時から、三上の当古橋の土手に立って、石巻山、豊川、本宮山を見渡 す風景が好きだった。何故好きかと言われても分からなかったが、この本により何か ロマンを感じられずにはいられなくなった。ドイツのシュリーマンはギリシャ神話詩 ホメロスを読み、トロイの遺跡を発掘した。古代文書、伝承を信じて、日本の源流の ロマンの求めることも大切なことだと思う。私は、今あえてこの本の説の正偽を問わ ない。私たちに必要なのは我々の先祖もこの地で、大きな地域づくりをしたと言うこ とでないか。 (文責:小野喜明)


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